監修者のことば

木村文庫の監修にあたって

清水健信(精神科医)

木村敏記念臨床哲学文庫(「あいだ」の図書室)は、精神病理学者・哲学者である木村敏の業績を顕彰し、その著書・蔵書・書簡類を保存・管理すべく、木村敏と縁の深い資生会八事病院内に設立されました。
中でも最も力を入れて整備したのは、木村の自著を集めたA室です。現在では入手困難となった外国語文献を含む学術論文はもとより、新聞に寄稿された短文のコラムなども可能な限り収集・整理しました。また、木村が書斎の中央に飾っていた西田幾多郎直筆の短冊や、ハイデガー本人から直接贈られた『Zur Sache des Denkens(思索の事柄へ)』、さらには生前の木村の写真なども展示し、来訪者に「木村敏という人間」が立体的に伝わるよう工夫しています。私自身がこの文庫の整備に多大な労力を注いだのも、「木村敏という人間」に深く心を動かされたからに他なりません。
B・C室の蔵書コーナーでは、木村が生前所有していた国内外の精神医学書・哲学書を自由に閲覧いただけます。これらの膨大な蔵書には、木村自身による書き込みも多く見られ、それらは今後、「木村と現象学的・人間学的精神病理学」「木村と日本哲学(京都学派)」「木村と日本の精神病理学・精神療法」「木村とフランス・イタリア現代思想」といったさまざまな観点から検討されてゆくべき貴重な資料と言えるでしょう。
さらに、文庫の資料を総動員することで、木村の詳細な年譜と全業績一覧を新たに作成しました(この作業にあたっては、星由美さんと内山太樹さんの多大なるご協力を賜りました。ここに記して深く感謝申し上げます)。なお、全業績一覧には依然として誤りや不備が残されているものと思われます。皆さまからの忌憚なきご指摘をお待ちしております。併せて、当文庫に未収蔵の資料をお持ちの方がいらっしゃいましたら、ぜひご一報・ご教示いただけますと幸いです。
人文学的精神病理学や臨床哲学の研究にとって、過去のテクストを徹底的に読解することが重要なのは言うまでもありません。「臨床」という言葉の意味そのものが変質しつつあるかのような現今の状況においてこそ、木村の著作や関連文献を体系的に収蔵する本文庫が、精神病理学・臨床哲学の新たな地平を拓くための道標となることを願っています。
最後に、監修者として、木村の蔵書資料の配置や、保存にあたっての選定基準について記しておきます。

木村の蔵書は、京都・嵐山の木村の自邸(リビングの書架、書斎の書架、寝室の書架、庭の物置)と、河合塾京都校内の木村のオフィス(木村は京都大学医学部を定年退官した後、河合塾の河合文化教育研究所で主任研究員・所長を務めていた)とに置かれていた。リビングの書架には主に精神医学関係のものが、書斎の書架には主に哲学関係のものが、寝室の書架には雑本類が、物置には雑誌類と雑本類が、それぞれ収められていた。河合塾のオフィスには、書簡や抜刷、書類などが置かれていたほか、執筆等に必要な書籍がその都度自邸から持ち込まれていたようであった。これらの書籍および雑誌を合計すると、約10000冊に上った。これらを全て保存するのは物理的に不可能であるため、次の基準に基づいて約6000冊に選定した。
  1. まずは木村自身による著作物を最優先で保存した。書籍や雑誌論文のみならず、講演原稿、講義ノート、日記類、書簡類、未発表の訳稿類なども優先的に保存した(未発表の論考はほとんど無いようであった)。自著の保存にあたっては、すべての版の収蔵に努めた。なお、日記や書簡については、個人情報であることに鑑みて、家族である木村元氏に基本的に一任した。
  2. 次に、わずかでも書き込みがある書籍や、著者からの重要な書簡が挟まっていた書籍(木村は書簡をその人物の著書に挟む形で保管していることも多い)を保存した。書き込み等がない書籍の場合、リストに登録さえあれば、現物そのものは他の場所でも参照できるからである。このとき、例えば複数巻に分かれているシリーズもののうちの一つだけに書き込みがある場合でも、そのシリーズの全てを保存した。
  3. その次に、書き込みがなくても木村と関連の深い書籍を保存した。このとき、資料的価値やアクセスの難易度に鑑みて、和書よりも洋書を優先した。
  4. 逆に、読んだ形跡のまったくない物置内の謹呈本・雑本や、木村が読書不可能な状態になってから贈られてきた書籍などは保存しなかった。
  5. 雑誌(定期刊行物)や抜刷、学会抄録集などの非書籍については、木村が部分的にでも執筆しているもの(つまり自著)、木村による書き込みがあるもの、そして木村と関係の深いもの(例えばブランケンブルクから贈られた抜刷や、海外雑誌の木村敏特集号など)のみを保存した。木村が所有していたすべての雑誌類のすべての巻・号を網羅的に保存することはしていない。
上記の基準は、作業の進展とともに徐々に確定していったものであるため、この基準に完全に従っていないものも若干ながら存在すると思われる。また、木村の幾度にもわたる引越や古書店への売却(夫人の証言による)などのために、本作業開始時点で失われた書籍・雑誌も相当数あるものと推測される。したがって、可能な限り網羅的たらんと最善を尽くしたつもりではあるが、完璧とは言えないことは断っておきたい。
なお、同一書架内でも配列が一定しないことも多く、また木村がその都度必要に応じて自宅から河合塾のオフィスへ、あるいはリビングから書斎へ、持ち込んだり持ち帰ったりしていることも容易に見て取られたため、各蔵書の配架場所を逐一記録することはしていない。代えて、以下におおまかな配架場所を記しておく。

①リビングの書架
 前後2列のスライド式書棚で、前列が4面、後列が5面あった。それぞれ各面は縦に7段構成であった。それぞれの面を向かって左から順に1面、2面として大まかな構成を記すと、次の通りである(例えば「リ前1面1段」はリビングの書棚の前列の一番左側の面の1段目を指す)。

  • リ前1〜4面の上から4段目まで(リ前1面のみ5段目まで)は、精神医学の洋書(主としてドイツ語、ヴァイツゼカーを含む)が、概ね著者名のアルファベット順に並べられていた。
  • フロイト関係のものだけ、リ前4面の5、6段に配架されていた。
  • リ前1面の6、7段およびリ前2面の5、6、7段には、自著や部分執筆の論集が並べられていた。
  • リ前3面の5、6、7段およびリ前4面の7段には、謹呈本や夫人の書籍が置かれていた。
  • リ後1面の1〜6段には、全集(プラトン、アリストテレス、西田、和辻)や『異常心理学講座』『分裂病の精神病理』シリーズなどが配架されていた。
  • リ後2、3面の1〜6段には、Nervenarzt などの海外の精神医学雑誌や辞典類が並んでいた。
  • リ後4面の1〜6段には、精神医学の和書が並べられていた。
  • リ後5面の1、2段は謹呈本、3段は海外精神医学雑誌、4、5、6段は木村自身の著書・訳書が置かれていた。
  • リ後1〜5面の7段には、抜刷や学会抄録集、木村自身の講演原稿や講義ノート、書類が置かれていた。

②書斎の書架
 書斎に入って左手には、大陸哲学・日本哲学関係用の書架が5面あった(「書1面」〜「書5面」と表記)。入って右手には机が置かれ、机の右側には自然科学および分析哲学関係用の書架が1面(「書科」)、机の左側には自著や座右の書が置かれる小さな書架が1面(「書小」)あった。それぞれの概要は次の通り。

  • 書1面には、上から、デリダ、ドゥルーズ、メルロ=ポンティ、フーコー、アガンベンなどの現代フランス・イタリア思想、および西田幾多郎や和辻哲郎、九鬼周造、西谷啓治などの日本哲学の書籍が並べられていた。
  • 書2面には、上から、ドイツ観念論、古代哲学、現象学的社会学、ベルクソンなどのフランス哲学、近世哲学の書籍が配架されていた。
  • 書3面には、上から、ニーチェ、ハイデガー、フッサール、レヴィナスなどの書籍が並べられていた。
  • 書4面には、哲学辞典や辞書、言語学関係の書籍が並べられていた。
  • 書5面には、親交のあった日本の哲学者の和書、および自著が置かれていた。
  • 書科には、数学・生物学・基礎医学などの科学書や、分析哲学関係の科学哲学書などが配架されていた。
  • 座右としていたであろう書小には、木村自身の自著(「自家用」と記されたものもあった)や岩波文庫版の西田の著書、ブランケンブルクの著書、河野裕子の歌集が置かれていた。

③寝室の書架
 前後2列のスライド式で、前列にはドストエフスキーやゲーテなどの文学関係の他、文庫・新書類やガイドブック・地図類、夫人の書籍などが置かれていた。後列には、バッハ、モーツァルト、武満徹などの音楽関係の書籍や、田邊元、唐木順三、三木清などの京都学派関係の書籍、高安国世、河野裕子、永田和宏らの歌集などが置かれていた。

④物置
 「精神神経学雑誌」「精神医学」「現代思想」「思想」「理想」「imago」などの雑誌類、および雑本類が置かれていた。

⑤河合塾京都校のオフィス
 自著、講演原稿、書簡のほか、謹呈本、和雑誌、謹呈抜刷、書類が大半であった。ブランケンブルクやテレンバハ、チューリヒ会議関係者などとの間で交わされた外国語の書簡類は、年代毎にファイルされていた。重要な抜刷は人物毎にファイルされていた。書籍は大半がその都度自宅から持ち込まれたであろうものだったが、特記すべきものとしては、日本語版フロイト全集、上田閑照集、長井真理関係のものがあった。

父の思索の道を延ばしていくために

木村元(家族、アルテスパブリッシング代表)

このたび「木村敏記念臨床哲学文庫」を、父・木村敏が長年勤務した八事病院の院内に開設していただけること、家族としてたいへんありがたく光栄に思います。とりわけ、父が晩年に拠点とした京都とならんで、思想的にもっとも多産な時期をすごし、もうひとつの拠点といっていい名古屋の地に、その蔵書や原稿などを収蔵・公開・展示する施設が設立されることは、父にとってまことにふさわしく、喜ばしいことと感じています。
父は1970年から86年まで名古屋に在住、名古屋市立大学に勤務すると同時に、八事病院では顧問職を拝命し、病院運営と臨床にたずさわるだけでなく、院内の有志とともに読書会をおこない、みずからの哲学的精神病理学を育みました。
名古屋での読書会はその後も長く継続し、父が参加した最後の研究会も名古屋で開催されたものでした。父が晩年にもっとも情熱を燃やし、2000年から18年まで18回にわたって主導した「河合臨床哲学シンポジウム」も、名古屋を本拠とする予備校「河合塾」のシンクタンク的組織である河合文化教育研究所が主催するものでした。
1986年に京都大学教授に転身してのちも、このように、名古屋との関係は濃く、太いものでした。それゆえ、父の思想の軌跡を示す蔵書類が名古屋に安住の地を得、それだけでなく、これから父のうがった轍をたどって、さらに先へと思索の道を延ばしていこうとする後進のために、それらが公開され閲覧に供されることを、だれよりもうれしく思っているのは父本人でしょう。
父の他界後、自宅や研究室に遺された膨大な書物や資料を前に途方にくれたわたしは、あてもないまま、門下生のみなさんに声をかけ、相談に乗っていただきました。何度もオンラインミーティングを重ね、みなさんが知恵を出しあって引取先を探してくださいましたが、メンバーのひとりである聖隷浜松病院の生田孝先生から、八事病院の水谷浩明理事長が蔵書の引き受けを二つ返事で快諾してくださったという報せをうけました。大学図書館や学術機関が受け入れを渋るなか、民間病院が手を挙げてくれたことに、最初は信じられない思いもあったのです。
その後、水谷先生とはじめてお会いしてお話しするうちに、エヴィデンス偏重の科学的精神医学にあきたらず、患者ひとりひとりの人格を尊重し臨床を重視する先生のご姿勢に、精神の病を「人と人とのあいだの病理」ととらえ、医者と患者とが向かいあう臨床の場で哲学的に考究することを生涯旨とした父の思想が、たしかに息づいていることを感じ、水谷先生が信念をもって父の文庫をいとなんでいこうとされているのだと確信することができました。
文庫の監修をつとめられたのは、父の「もっとも若い門人」であり、精神医学だけでなく父の思想そのものを研究テーマとする清水健信先生です。偶然にも父の家のすぐ近くにお住まいだったことから、最晩年の父と親しく交流し、没後は、蔵書の引取先が決まるまえから、足しげく父の家に通い、遺された膨大な書物や資料のリスト化に献身的に取り組んでくださいました。それが、今回の文庫設立において必要なデータベースの基礎となったのです。
文庫の室内掲示物やホームページなどのデザインを担当してくださった木下悠さんは、数多くの書物の装丁を手がける気鋭のブックデザイナーです。臨床の現場で医療にたずさわるだけでなく、初期からオリジナルな思想を書物としてひろく世に問うことをみずからに課してきた父の文庫のデザインを、本づくりの要諦を知りつくした木下さんにおまかせできるのは、心からの喜びです。なお、「『あいだ』の図書室」のロゴマークは、父がまだワープロやパソコンを使わず、原稿用紙に手書きで執筆していた時代に書いた「あいだ」という文字を、フォントデザインの仕事に従事しているわたしの娘、木村文香が整形し、木下さんがデザインに取りいれてくださいました。
最後になりましたが、文庫の設立をご決断くださった水谷浩明理事長、実務を担当された理事長秘書の星由美さんをはじめ八事病院のみなさま、監修者の清水健信先生、開設にあたってお祝いのお言葉を寄せてくださった大橋良介先生、岡本進先生、野家啓一先生、デザインを担当された木下悠さん、その他おひとりおひとりのお名前を記すことはかないませんが、ご協力くださったすべての方々に、この場を借りて心からの感謝を申し上げたいと思います。

木村敏

ことば

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木村敏

ことば

自己が自己として自らを自覚しうるのは、自己が自己ならざるものに出会ったその時においてでなくてはならない。……自己と自己ならざるものとの両者は、いわば同時に成立する。西田幾多郎の有名な「世界が自覚する時、我々の自己が自覚する。我々の自己が自覚する時、世界が自覚する」は、この点を指している。……自己が自己ならざるものに出会った、まさにその時に、ぱっと火花が飛散るように、自己と自己ならざるものとがなにかから生じる。……個人とは、このなにかが、自己と自己ならざるものとの出会いを機縁にして分れて生じて来たものである。このなにかが個人以前にある。……私はさしあたってこのなにかを、「人と人との間」という言い方で言い表わしておこうと思う。

※注記:太文字は原著では傍点によって示されている
『新編・人と人との間』ちくま学芸文庫、二〇二五年、二八―三〇頁

木村敏

ことば

私たちは自分自身の人生を自分の手で生きていると思っている。しかし実のところは、私たちが自分の人生と思っているものは、だれかによって見られている夢ではないのだろうか。……夜、異郷、祭、狂気、そういった非日常のときどきに、私たちはこの「だれか」をいつも以上に身近に感じとっているはずである。夜半に訪れる今日と明日のあいだ、昨日と今日のあいだ、大晦日の夜の今年と来年のあいだ、去年と今年のあいだ、そういった「時と時とのあいだ」のすきまを、じっと視線をこらして覗きこんでみるといい。そこに見えてくる一つの顔があるだろう。その顔の持主が夢を見はじめたときに、私はこの世に生まれてきたのだろう。そして、その「だれか」が夢から醒めるとき、私の人生はどこかへ消え失せているのだろう。この夢の主は、死という名をもっているのではないのか。

『時間と自己』中公新書、一九八二年、一九一―一九二頁

木村敏

ことば

自己が自己として自らを自覚しうるのは、自己が自己ならざるものに出会ったその時においてでなくてはならない。……自己と自己ならざるものとの両者は、いわば同時に成立する。西田幾多郎の有名な「世界が自覚する時、我々の自己が自覚する。我々の自己が自覚する時、世界が自覚する」は、この点を指している。……自己が自己ならざるものに出会った、まさにその時に、ぱっと火花が飛散るように、自己と自己ならざるものとがなにかから生じる。……個人とは、このなにかが、自己と自己ならざるものとの出会いを機縁にして分れて生じて来たものである。このなにかが個人以前にある。……私はさしあたってこのなにかを、「人と人との間」という言い方で言い表わしておこうと思う。

※注記:太文字は原著では傍点によって示されている
『新編・人と人との間』ちくま学芸文庫、二〇二五年、二八―三〇頁