当文庫について

館長ごあいさつ

水谷浩明
(当文庫館長、医療法人資生会 八事病院 理事長)

「木村敏記念臨床哲学文庫」の開設に当たり、改めて「木村敏」先生とのご縁を感じております。

当院が木村敏先生の蔵書をお預かりすることになったのは、私の研修医時代のオーベン(指導医)であった生田孝先生からご相談を受けたことから始まります。浅学の身として知の巨人である木村敏先生について書くことははばかられますが、木村先生にまつわる個人的な思い出を中心に書かせていただきます。

木村先生との思い出は3期に分かれます
1期目は私がまだ小学生の頃です。木村先生が名古屋市立大学に勤めておられた時期、週2回当院で入院患者の診察をしていただいていましたが、私の父が口にする精神科の話題の中によく木村先生のことが出てきました。木村先生は自叙伝の中で、名古屋におられたこの時期が「独自の精神病理学理論を構築していく上で、最も脂がのりきった時期だと思う」(『精神医学から臨床哲学へ』、2010)と書いておられますが、当院にとってもその頃は、読書会はじめ著明な先生方が当院と関わりを持ってくださっていた時期で、精神科医療についての議論が最も活発になされた時期とも言えます。
 当時子どもであった私にとって印象的だったのは、木村先生が当院保養所の木曽駒山荘で翻訳をされておられたこと、そして私も直接お話しする機会がありましたのでその様々な場面でのやりとりです。私は当時の大人の会話の中から、精神医学は生物学的側面と心理学的側面の両輪から成り立っており、片方に振り子が触れてもまた振り子は戻ってくるということを感じていました。
また私の母が音楽関係の仕事に携わっていたこともあり、木村先生とは音楽の面でもご縁がありました。この頃は光栄にも家族ぐるみでお付き合いをさせていただいておりましたが、子どもの私もコンサートに一緒に連れて行ってくださったことを覚えています。

2期目は、私が精神科に入局した頃です。木村先生はすでに京都に移られていましたが、私は同期の仲間と一緒に木村先生の京都の読書会にうかがったことがあります。私はドイツ語が苦手でしたが、そこに書かれている言葉の背後にある著者の真意を読みとるというスタイルの読書会のおかげで、言語を超えて本質的に大切なことを教わり、そのお話は今でも非常にためになっています。

3期目は、文庫開設にあたって木村先生の本を読み返している今です。木村先生の膨大な知力に圧倒されてしまい、当院での文庫開設を大変光栄に思う気持ちと同時に、本当に当院でよかったのだろうかという気持ちも混在しております。しかし以前よりは多少私も精神科医療の経験を積み、私の周りに木村先生から教えを受けた先輩方もたくさんみえて今でもその方々と交流があり、最近でも県外の先生から「八事病院は木村先生が読書会をされていた病院ですね」と聞かれることがあるなど、木村先生と当院のご縁を感じる日常があります。
最近私は臨床について以前のように突っ込んだ意見を交わす機会が減っている気がしますが、木村先生のご著書を通じて、木村先生が様々な人と人とのつながりの中で思索をなさっておられたことが想像できます。今後精神科医療はデジタル化がさらに進む一方で、現場ではアナログ的な面が求められてくる、少なくとも今よりは振り子は戻るだろうと私は信じています。その点で、当院も微力ながら何かしらお役に立てればと考えておりますが、この度いただいたこのご縁が当院の背中を押してくださっているものと感じ、やれるところまでやってみようと思っています。

最後になりましたが、今回の文庫開設にあたりまして木村元様、生田孝先生、岡本進先生、清水健信先生には大変お世話になりました。感謝の言葉を終わりの挨拶とさせていただきます。

木村敏と名古屋・八事病院

 木村は1970年にハイデルベルクから帰国し、同年から1986年までの16年間にわたって名古屋市立大学医学部精神科で教鞭を執った(70年から助教授、74年から教授)。中井久夫を助教授に迎え、『分裂病の精神病理』ワークショップも花開いたこの時期に、木村はアンテ・フェストゥム、ポスト・フェストゥム、イントラ・フェストゥムという代表的概念を生み出し、学問的に最も多産な時期を迎えることになった。そしてこの名古屋時代に木村が主たる臨床の場としたのが、名市大への赴任と同時にその顧問となった八事病院である。八事病院はまた、名市大の医局と並ぶ研究活動の場としても大きな役割を果たし、精神病理学や哲学のドイツ語・フランス語文献の読書会が数多く開かれた。わけても、木村の精神病理学領域での代表的な訳業であるブランケンブルク『自明性の喪失』とテレンバハ『メランコリー』という2冊の邦訳書が、八事病院での読書会から生まれたことは特筆される。木村は京都大学へ教授として転出した後も名古屋との繋がりを保持し、後半生のヴァイツゼカーの多くの邦訳は名古屋の読書会から生み出された。晩年の主たる活動の舞台であった「臨床哲学シンポジウム」の第1回も、八事病院でも活躍していた愛弟子・長井真理追悼の催しとして名古屋で開催されている。
八事病院の医局にて
(前列左から2人目が木村、その右手が同院創設者の水谷孝文)
『八事病院十年のあゆみ』(医療法人資生会八事病院、1971)より

各室の説明

A

展示・自著
 木村の自著(単行本、編著、訳書、欧文論文、邦文論文など)と、木村ゆかりの品々をご覧いただけます。
 ゆかりの品としては、木村の直筆原稿のほか、木村が自身の書斎の中央に掲げていた西田幾多郎の真筆の短冊や、ハイデガーから直接謹呈された『思索の事柄へ』、ビンスヴァンガーから贈られた葉書などを展示しています。

B

蔵書
 木村の蔵書を置いています。手にとってお読みいただけます。

C

蔵書・映像・検索
 木村の蔵書のほか、木村が出演する映像資料(河合臨床哲学シンポジウムや、海外の精神病理学者を招いた国際シンポジウムの記録映像など)もご覧いただけます。専用の端末で蔵書を検索していただくことも可能です。

D

蔵書・書簡など
 木村の蔵書と共に、書簡などを保管しています。D配架の資料は原則的に非公開としております。

木村敏

ことば

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木村敏

ことば

自己が自己として自らを自覚しうるのは、自己が自己ならざるものに出会ったその時においてでなくてはならない。……自己と自己ならざるものとの両者は、いわば同時に成立する。西田幾多郎の有名な「世界が自覚する時、我々の自己が自覚する。我々の自己が自覚する時、世界が自覚する」は、この点を指している。……自己が自己ならざるものに出会った、まさにその時に、ぱっと火花が飛散るように、自己と自己ならざるものとがなにかから生じる。……個人とは、このなにかが、自己と自己ならざるものとの出会いを機縁にして分れて生じて来たものである。このなにかが個人以前にある。……私はさしあたってこのなにかを、「人と人との間」という言い方で言い表わしておこうと思う。

※注記:太文字は原著では傍点によって示されている
『新編・人と人との間』ちくま学芸文庫、二〇二五年、二八―三〇頁

木村敏

ことば

私たちは自分自身の人生を自分の手で生きていると思っている。しかし実のところは、私たちが自分の人生と思っているものは、だれかによって見られている夢ではないのだろうか。……夜、異郷、祭、狂気、そういった非日常のときどきに、私たちはこの「だれか」をいつも以上に身近に感じとっているはずである。夜半に訪れる今日と明日のあいだ、昨日と今日のあいだ、大晦日の夜の今年と来年のあいだ、去年と今年のあいだ、そういった「時と時とのあいだ」のすきまを、じっと視線をこらして覗きこんでみるといい。そこに見えてくる一つの顔があるだろう。その顔の持主が夢を見はじめたときに、私はこの世に生まれてきたのだろう。そして、その「だれか」が夢から醒めるとき、私の人生はどこかへ消え失せているのだろう。この夢の主は、死という名をもっているのではないのか。

『時間と自己』中公新書、一九八二年、一九一―一九二頁

木村敏

ことば

自己が自己として自らを自覚しうるのは、自己が自己ならざるものに出会ったその時においてでなくてはならない。……自己と自己ならざるものとの両者は、いわば同時に成立する。西田幾多郎の有名な「世界が自覚する時、我々の自己が自覚する。我々の自己が自覚する時、世界が自覚する」は、この点を指している。……自己が自己ならざるものに出会った、まさにその時に、ぱっと火花が飛散るように、自己と自己ならざるものとがなにかから生じる。……個人とは、このなにかが、自己と自己ならざるものとの出会いを機縁にして分れて生じて来たものである。このなにかが個人以前にある。……私はさしあたってこのなにかを、「人と人との間」という言い方で言い表わしておこうと思う。

※注記:太文字は原著では傍点によって示されている
『新編・人と人との間』ちくま学芸文庫、二〇二五年、二八―三〇頁