エッセイ
エッセイ
木村敏の音楽と臨床と精神病理学――あいだの眼差し
和田信
耳を傾け、受けとめている。この人に流れる何かを見つめ、感じとっている。診察室での木村敏先生は、そのように感じられた。凛とした姿から、専門家として厳しく見つめる眼と静かな暖かさが伝わってきた。そこで何が起きているか理解するには、何年にもわたる経過を知っておく必要があった。これまでどんな人生を歩み、どんなことを経験してきたか。目の前にいるこの人が今この時どんな状況を生きているか。大きな視点から見つめていることが腑に落ちて納得できるようになったのは、私自身精神科医として患者の人生に深く関わるようになって何年も経てからであった。否、正直に言えば、最近になってようやくである。
普段静かに聴いている木村先生も、患者が危機的な状況を迎えていると察知すると、果敢に介入した。いつもの穏やかな物腰からは想像できない、強い姿勢を目の当たりにした〈注1〉。
腕利きの精神療法家であると声高に主張したりすることは決してなかった。ただ臨床家として当然のことをしているに過ぎないと木村先生自身は考えていたと思う。患者を理解するということは、その人の人生や生き様を理解することであって、一朝一夕に成し遂げられるものではない。例えば家族として、あるいは友人としてその人に長い間交わっていれば、人となり、生き方、感じ方、といったことが自然に伝わってくる。人を理解するということは、そういうことだ。深く交わることによってしか本当のことはわからない。そう繰り返し語っていた〈文献17〉。とても大切で基本的なこと、それでも広く一般に実践されているとは限らないこのような姿勢は、精神療法面接の技術的次元を超えて、私達門下生の身にも染み渡ってきた。虚飾の無い臨床医の姿が、精神科医としての生き方にその後も影響し続けた。
「生命あるものを研究するには、生命とかかわりあわねばならない。」〈文献1〉ヴィクトーア・フォン・ヴァイツゼッカーのこの一節を木村先生は繰り返し引用した。ヴァイツゼッカーのこの言葉は、木村先生の臨床と学問の姿勢を端的に示している。木村先生は患者に関わり、実地に様々なやりとりをする中で、人が生きる様を感じ取っていた。現象学的方法を謳う研究であっても、他人が実践したことを外から眺めて分析するだけで自ら患者と交わることなく実践にかかわっていない研究は、生の現実を真に穿つものには決してならない。木村先生はそう語っていた。
私は学生時代から精神病理学に関心を抱き、数名の学生で殆ど個人教授のようにして木村先生からフロイトの著作でドイツ語講読の指導を受けていたが、医学部を卒業し専門分野を選択するぎりぎりの期限まで、本当に精神医学の道に身を捧げるのか、迷いに迷っていた。散々迷走した挙句に精神科医としての人生を決意し、挨拶に伺った時、木村先生は「患者をよくみなさい」と言った。精神病理学者として敬意を抱いていた先生から最初にかけられたのが「患者をよくみなさい」という一見ごく当たり前のような言葉であったことは、当時の私にはいささか意外に感じられた。しかしこの言葉は、私自身が精神科医として経験を重ね、先人の残したものをいくらか理解し、自分でも考え発表するようになってから、重く響くようになった。〈文献17, 18〉
表面に現れた精神症状だけにとらわれず、人が生きる生の状況に目を向ける姿勢は、木村精神病理学の最初から一貫していた。木村先生がミュンヘン留学中30歳代前半で著した離人症に関するドイツ語論文で既に、離人症に現れる非現実感などの症状の背後に、自我体験が成立する源となる事態を観取し論じている。〈文献2〉
症状の背後に人間的事態を見つめる姿勢は、木村精神病理学の多彩な展開においても一貫していた〈文献3, 4〉。
症状の背後にある人の生きるあり方に目を向ける姿勢は、実は精神科医になる前の木村先生自身の音楽体験に根差していることを木村先生自身が記している。〈文献3, 5, 8〉
学生時代から木村先生は音楽の演奏に熱心に取り組んでいた。戦後旧制三高(第三高等学校)では音楽部にて、新制大学となってからは音楽研究会というクラシック音楽を演奏する団体を自ら立ち上げ、ピアノ演奏だけでなく、合唱と合奏の指揮まで担っていた。この頃木村先生は演奏するだけでは飽き足らず、音楽演奏において体験したことがどういうことか考えるようになった。
「私たちが音楽として鑑賞している美を生み出しているのは、そこで鳴っているいろいろな音そのものの美しさであるよりも、むしろそれらの音どうしのあいだに働いている引力や斥力のような力の動きではないのか。」「この「音と音とのあいだ」についての思索は、のちの私の精神病理学で「人と人とのあいだ」の発想につながって同名の著書を書くことにもなるし、「あいだ」という概念を私の最大のキーワードにすることにもつながっている。合奏音楽において、音と音とのあいだが人と人とのあいだとして体験される事情については、「あいだ」という著書で立ち入って論じておいた。」〈文献6〉
著書『分裂病の現象学』の序章に木村先生の音楽の感じ方がよく表現されている。
「私は以前から、音楽の背後に広がる空間、音と音との間から聞こえてくるもの、つまり音楽の本質的意味は、一言でいえば「純粋時間」とでもいえるものではないかと考えていた。バッハにはバッハなりの、モーツァルトにはモーツァルトなりの「時間のもち方」があって、私たちがバッハやモーツァルトを理解するということは、私たち自身がバッハやモーツァルトの「時間の持ち方」と一体になり、同じ時間を同じ仕方でもって、その結果、そういった音楽に触れることによって他ならぬ自分自身の時間をもつことなのである。この場合、「時間をもつ」ということは、「自分の存在をもつ」ことから区別できない。バッハを聴くということは、バッハの中に自分を見出すことであるし、同時に自分の中にバッハを見出すことでもある。それはまた、自分もバッハも無に帰して、純粋な時間の息吹にひたることでもあるし、同時にそういった根源的な経験に支えられて自分の存在とバッハの存在とが両方とも確実なものとなることでもある。」〈文献3〉
著書『あいだ』では、音楽を演奏する際の「間」の動的構造について詳しく論じている。〈文献10〉木村先生57歳の著作であるが、ここで記していることは、学生時代からの演奏体験に根差している〈文献7〉。
「音楽が自発的かつ主体的に演奏されるということは、各々の音がそれ以前に演奏された一連の音からなる音形態からの、そしてなによりもまずその音に直接に先行する「音と音のあいだ」(具体的には楽譜の上で個々の音符と音符にはさまれた空白、あるいは休止符によって表記される部分)からの、音楽それ自体に内在する自己運動的な必然性のみに従って奏されるということである。〈中略〉次に来るべき音がこの「音と音とのあいだ」に内在する自己運動的な動的構造から生み出されるということ、換言すればこのノエシス的な動的構造それ自体が次に来る音の出現をノエマ的にも規定するということに変わりはない。」
「この動的構造のことを日本古来の用語をもちいて「間」と呼んでもいいだろう。「間」はつねにそれ自身のうちに未来産出的な志向性を有していて、次に来るべき音はこのノエシス的な未来志向性に従って方向づけられることになる。演奏が自律的・主体的であるということは、各々の音が直接的にはその直前の「間」以外のなにものによっても規制されないということである。」
「各自のパートの演奏における「間」の一つひとつが、そのノエシス的構造の必然性において共演者の「間」と「合致」することのほうが本質的だということになる。言い換えれば、合奏音楽全体を生み出し続けている「間」と、各自の演奏に方向を与えている「間」とが、同じ一つの自己産出的な原理として統合されていなくてはならない。合奏が成立するということは、音が合うということより以前に、まず「間」が合うということなのである。」
「一人ひとりの「内部」で鳴っている音楽が同時に相手との「あいだ」の場所である「虚の空間」でも鳴っていると書いたのは、実はノエマ的な音楽のことというよりも、ノエシス的な「間」のことだった。各奏者の「内部」における「間」と、音楽全体の「間」とが合致する場所、それが各自の内部でもあり外部でもあるような「あいだ」の場所だということなのである。」
こうした論述は多くの読者にとって難解に映るかもしれない。しかし、学術的に難しく見えがちな記述も実は、音楽の演奏家にとっては至極わかりやすいもので、自身が演奏する時に感じていることがまさにここに表現されていると感じる音楽家が少なくない〈注2〉。木村敏先生のご子息で音楽出版社アルテスパブリッシングを営んでいる木村元氏もこのことを語っている。木村元氏は、音楽家に木村敏先生の愛読者が大勢いて、中にはショパンコンクールの本番前に木村敏先生の『あいだ』を読んでいたピアニストもいると語っている(五十嵐薫子氏)〈文献12〉。私自身も20歳代の頃、木村敏先生の勧めで留学したミュンヘンで出会った声楽家田島茂代氏から、木村先生の『あいだ』に描かれている音楽体験について意見を求められたことがある。田島氏は学生時代からこの記述に惹かれていて、私に問いを投げかけたのだが、その時田島氏は私が木村門下生だとは知らなかったのである。
「私にとって精神病理学とは、精神科医として患者と出会っている臨床そのものを「臨床哲学的」に思索する営みにほかならない。」
「そのような私の姿勢は、学生時代の音楽体験、ことに合奏の体験に根をもっている。私はそこで具体的で実体的とすらいえる「人と人とのあいだ」の実感を捉えていた。」〈文献8〉
音楽における演奏体験は、経験のあり方として木村先生に深く残った。そして、これをどのように捉えればよいか、考え続けた。
まず体験がある。その後に体験をどう捉えるべきか模索する思考作業が始まる。木村先生はいつもそうであった。理論的整合性を求める思考が先導してゆく訳では決してなかった。この姿勢は精神科医、精神病理学者となるずっと前に音楽体験で始まり、その後、精神病理学を論じるようになってからも、一貫して保たれた〈文献17〉。
体験から思考へ。幾重もの展開と変遷を含む木村精神病理学の一連の著作を読み解くにあたり、このことは重要な鍵になると私は考えている。現象学的精神病理学および現象学の潮流と西田哲学に出会い、フランス現象学、ポスト構造主義、分析哲学、科学論との対峙を経て、木村精神病理学は思想的展開と深化を遂げた。著述は時に難解に映り、先に提示した言説と矛盾を孕むように見えることもある。しかし、一連の著述の背後には、常に患者との深い交わりという生の体験があった。どうすればこれを的確に捉え、理解し、人に伝えることができるか。木村先生は模索した。その格闘の連続が木村精神病理学であったと思う。一見難解そうに見える理論的追及も、何を明るみに出そうとしているのか、眼差しの先を見つめることができる人には理解しやすい。
精神病理学や哲学において、人が書いたものについて文献研究を行う研究者は世に溢れている。しかし木村敏先生の眼は常に、患者とのあいだ、人と人のあいだ、人と世界のあいだ、生命のあいだに注がれ、そこから離れなかった。
晩年、精神障害の自助グループの人たちと木村先生の対談に、「なんであんなに病気のことをわかってくれるんだろう」と記されていた。この自助グループで木村先生は著作を通して、きわめて臨床的な人と受けとめられているという。当事者からのこの言葉はまさに、木村先生の精神病理学が病を生きる人の現場に向き合い続け、そこから紡ぎだされていることを端的に表している〈文献11〉。
晩年、木村先生は狭義の精神病理学から一歩踏み出して生命の学を展開し、「臨床哲学」を標榜するようになった〈文献9〉。このことは私自身の仕事と人生に深く影響を及ぼした。私が狭義の精神医学から思い切って足を踏み出し、がんを抱える人の心にかかわる仕事に重点を置くようになったのは、木村先生が模索していた生命に対する視点を新たな領域で展開したいという気持ちも内的な動機になっていた。しかし木村先生は当時、せっかく育てた弟子が精神病理学を捨てて別の領域に去ってしまうと感じ、強く嘆かれた。私自身は正直なところ、師の無理解に反発を感じていた。何年かの時を経て、木村先生も歳を召されて寛容になられた為であろうか、家出息子の私を許し、もう一度家に迎え入れてくださったように感じた。〈文献18, 19〉〈注3〉
言葉にならない経験を見つめる。分節化する前の生の現実に触れ続ける。それを学として位置づけるために粘り強く模索する。木村敏先生が実践し続けたこの姿勢は、30年間を通して私の身にも染み込むように伝わってきた。おそらく門下生の多くはこの感じを抱いていると思う。そしてこの姿勢は学問だけでなく、日々の診療を支える礎にもなっている。人が生きるありのままを受けとり、見つめることが、どんなに大切で、どんなに難しいか。人にかかわり続けている人なら、その深みを理解できるはずである。
音楽会で木村先生が奥様の歌を伴奏した場面は、鮮烈な光景として脳裏に焼きついている。ピアノの前に座った木村先生は、暗く静かな空間に響く声に耳を澄まし、音を紡ぎだしていた。声とピアノの音が溶け合い、光の風景を描き出していた。演奏者と聴衆のあいだに、何かが動いていた〈注4〉。木村先生は歌の伴奏にかけて特に優れた演奏者であったと思う。人の音を真摯に聴き、呼応して音を生みだすことのできる、限られた人にしか備わっていない伴奏者としての資質に恵まれていた〈注5〉。響きを感じゆったりと奏でる曲で、木村先生の持ち味は存分に発揮された〈文献16〉。
木村先生は仕事が一段落すると自宅でドビュッシーの「月の光」を演奏していた。(長男木村元氏より)〈文献16〉この曲は木村先生の音楽性にぴったりだ〈注6〉。「月の光」が醸し出す音の風景を感じながら、木村敏先生の息吹に触れていただけたら、幸いである。
注
注1 駆け出しの精神科医であった私は京都大学医学部附属病院精神科・神経科で木村先生の外来診療に週2日同席し、殆ど全ての診察に立ち会っていた。木村先生の京大在職最後の2年間であった。
注2 音楽はこうした体験に触れやすい場の一つであるが、音楽だけでなく、その他の芸術、スポーツなど様々な領域でこのような体験が可能であると木村先生は繰り返し語っていた。
注3 木村先生の提唱で開催されていた臨床哲学のシンポジウムに私が招かれ(第15回河合臨床哲学シンポジウム『生きられる死』(東京大学, 和田信「がんとともに生きる」)、その後木村先生は京都の学際研究所、日独文化研究所の役員に私を推薦した〈文献19大橋〉。友人の精神科医・精神病理学者トーマス・フックスThomas Fuchs氏(ハイデルベルク大学精神科教授)から、君は(聖書の)「放蕩息子」みたいだね、と言われた。
注4 平成元年(1989年)秋、京都大学教育学部臨床心理学教室が開催した教員と学生による音楽会。木村先生と奥様の他に、河合隼雄(臨床心理学、フルート)、三好暁光(精神科医、精神分析、バイオリン)、山中康裕(精神科医、臨床心理学、歌)、加藤清(精神科医、語り)ら教員と学生が演奏した。この音楽会に出演したことがきっかけとなって、私は学生時代からチェロで木村先生にピアノ伴奏をしていただく機会に恵まれた。
注5 音楽を演奏する行為における「聴く」ことの重要性について、オーボエ奏者古部賢一氏との対談で私はヴァイツゼッカーのゲシュタルトクライスとの関連を論じた〈文献13〉。また、癌を抱えて生きる人とのかかわりについて論じた別の論文では、人の心を「聴く」ことと音楽の音を「聴く」ことの共通性に言及した。〈文献14, 15〉
注6 学生時代(京大3回生か4回生の頃)木村先生は毎日新聞社主催香川県音楽コンクールピアノ部門にてドビュッシー「月の光」を演奏し優勝した。ピアノ独奏であったが、当時の学友であり音楽研究会の同志でもあった原田茂生氏のピアノ伴奏としても同コンクールに参加していた。原田氏は後に声楽家となり、東京芸術大学音楽学部教授、音楽学部長を歴任した。〈文献6 精神医学から臨床哲学へ〉
文献
1. ヴァイツゼッカー『ゲシュタルトクライス——知覚と運動の人間学』木村敏, 濱中淑彦訳, みすず書房, 1975年/1995年. 3頁. Viktor von Weizsäcker. Der Gestaltkreis-Theorie der Einheit von Wahrnehmen und Bewegen. Georg Thieme, 1949, 1950.
2. Kimura, B. Zur Phänomenologie der Depersonalisation. Nervenarzt. 34: 391, 1963.
3. 木村敏『分裂病の現象学』弘文堂, 1975年, 3-4頁.
4. 木村敏『精神医学から臨床哲学へ』ミネルヴァ書房, 2010年.
5. 同書279頁, 309-310頁.
6. 同書20-31頁.
7. 同書238-239頁.
8. 同書279頁.
9. 同書312-314頁.
10. 木村敏『あいだ』弘文堂, 1988年, 20-41頁.
11. 木村敏, 向谷地生良, 西坂自然, 清水里香, 宮西勝子, 山根耕平「当事者ならわかる、木村敏。——べてるmeets木村敏@金戒光明寺永運院/京都」『精神看護』2010年, 13巻6号, 2-16頁.
12. 木村元「父・木村敏の人と音楽」『文明と哲学』2022年, 14号, 20-23頁.
13. 古部賢一, 和田信「演奏における間主観性とゲシュタルトクライス——感覚と行為の一体性」『文明と哲学』2018年, 10号, 102-139頁.
14. 和田信「 死の不安を抱える人に向き合う——共感と間主観性. 共同研究 共生——そのエトス、パトス、ロゴス」日独文化研究所編『共同研究——共生』こぶし書房, 2020年, 167-185頁.
15. 和田信「静けさに耳を澄ます——命の音を聴く」『文明と哲学』2024年, 16号, 174-177頁.
16. 和田信「木村敏先生の音楽と学問」『文明と哲学』2022年, 14号, 16-19頁.
17. 和田信「木村敏精神病理学の源泉——体験と思考」『文明と哲学』2022年, 14号, 30-32頁.
18. 和田信「医療におけるスピリチュアルケア」瀧口俊子, 大村哲, 和田信編『共に生きるスピリチュアルケア——医療・看護から宗教まで』創元社, 2021年, 34-58頁.
19. 大橋良介「音楽と回想」『文明と哲学』2022年, 14号, 15頁.
※木村敏記念臨床哲学文庫(「あいだ」の図書室)開館記念論集「臨床と哲学のあいだーー木村敏とドイツの現象学・人間学」より転載
https://www.koyoshobo.co.jp/book/b670977.html
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