エッセイ

京大教授としての木村敏先生

村井俊哉

 京都大学精神医学「教室」の歴史は1902年まで遡り、木村敏先生は、その五代目の教授です。私は、木村敏先生の在任期間中に、この「医局」に「入局」し、そして、現在、八代目の教授ということになります。以下は、そのような筆者の視点からの感慨ということになります。
 医学部の「医局」という組織の封建的なイメージは、山崎豊子の「白い巨塔」で、もちろん誇張されているものの一定の真実を捉えたかたちで、広く知られています。時代も変わった今日では、こうした状況も大きく様変わりしましたが、木村敏先生が京都大学精神医学「教室」の教授であった時期、すなわち1986年から1994年は、まだまだ、そのような時代の中にありました。一方でこの時代は、反体制の動きも盛んでした。当時の京都大学精神医学「教室」の教授を除く医師は(今日の言葉で言えば、准教授、講師、助教)は「京大精神科評議会」という組織を形成し、反教授会、医局講座制への反対、といったことを旗印としていました。現在、教室の長である私は、若い教室員には大学院で研究を経験してもらいたいし、できることなら博士号も取得して欲しい、といったことを、日々考えています。しかし当時は、大学院や博士号といった制度自体が教授会権力の核心であると「京大精神科評議会」は考え、大学院は長期休止状態にありました。ここまで、他に言葉がないので鍵カッコつきで使ってきた「教室」、「医局」、「入局」という言葉も、当時は禁句でした。冒頭に述べた120年の歴史、とか、第何代教授、といった権威主義的な表現も同様です。
 私自身の入局面接の担当は、教授ではなく「評議会」の医師でした。木村先生には、その前後のどこかの段階で、面接ではなく、ご挨拶に行ったのを覚えています。当時、研修医であった私にとっては日々の活動は、他の通常の医局とさして変わることはありません。各医師は、医師として普通に診療行為を行い、規程の給料をもらって生活するだけのことです。しかし、教授となると違います。このような状況での教授は、普通に考えれば針の筵のような状態になりそうです。医学部の教授は、理系の研究者としてのキャリアを積んできた者がほとんどです。もし木村先生が通常の教授であれば、大学院という研究の場がボイコットされた状態では、手足をもがれたようなもので、何とも不幸なキャリアということになっていたでしょう。
 しかしながら、木村先生は精神科医としての臨床経験を基盤とした思想家です。週二日は外来診療に力を注がれ、残る時間は文筆を含めた思索に力を注がれていたようでした。今日、同じ職に就いている私の場合、職場での時間の半分は、組織の管理業務に割かれており、残る時間で臨床や研究や講義を詰め込んでおり、ものごとをゆっくり考える時間などほとんど残されていません(お世話になった木村敏先生を回顧するこの文章の執筆でさえ、十分な推敲の時間がない状況です)。それと比べると、当時の木村先生は、哲学的な問いについて思索を深めたり、ドイツ語やフランス語の古典を読み込んだりする時間が十分に確保できておられたように思います。そのように考えると、管理業務を反教授会派が握っていた当時の状況は、木村先生にとっては幸いな一面もあったともいえるのかもしれません。
 木村先生ご自身がこのような状況をどのように見ていたのかについて、ご本人の文章が残されています。当時、圧倒的に優勢であった生物学的精神医学に流されることなく、初代今村新吉教授、第三代村上仁教授の尽力によって、京大精神科を日本における人間学派の中心として独自性をもった教室となったことを回顧した後、次のように述べておられます。「1969年以降、京大精神科が「反精神医学」的な異議申し立ての中心的存在となったことも、これと無関係ではないはずである」(1)。
 私が入局した1991年当時は、教室には反精神医学派と木村人間学の二つの派閥(?)しかありませんでしたので、当時は思い至らなかったことですが、1991年というこの年は、今日のメインストリームである生物学的・医学的精神医学が、精神医学においてそのヘゲモニーを確立し始める時期に相当します(2)。そういう意味では、メインストリーム精神医学に対峙する重要なオルタナティブとしての二つの流れが、当時の教室においては奇妙な共存をしていたと言えるのかもしれません(2)。

文献
1. 京都大学精神医学教室 編.精神医学京都学派の100年、ナカニシヤ出版,2003.
2. 村井俊哉.21世紀の臨床家が精神医学史を学ぶ意義(「ブリュックナー:入門・精神医学の歴史」(村井俊哉、川島隆監訳)日本評論社、東京、2023, への解説、pp157-171)

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※木村敏記念臨床哲学文庫(「あいだ」の図書室)開館記念論集「臨床と哲学のあいだーー木村敏とドイツの現象学・人間学」より転載
https://www.koyoshobo.co.jp/book/b670977.html

Profile

村井俊哉(むらい としや)
1966年大阪府生まれ.1991年京都大学医学部卒,1998年京都大学大学院医学研究科博士課程修了.医学博士.マックスプランク認知神経科学研究所,京都大学医学部附属病院助手などを経て,2009年より京都大学大学院医学研究科精神医学教授.専門は一般精神医学,神経画像学,高次脳機能障害の臨床.著書に「はじめての精神医学」(ちくまプリマー新書),「統合失調症」(岩波新書),「精神医学の概念デバイス」(創元社)などがある.

木村敏

ことば

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木村敏

ことば

自己が自己として自らを自覚しうるのは、自己が自己ならざるものに出会ったその時においてでなくてはならない。……自己と自己ならざるものとの両者は、いわば同時に成立する。西田幾多郎の有名な「世界が自覚する時、我々の自己が自覚する。我々の自己が自覚する時、世界が自覚する」は、この点を指している。……自己が自己ならざるものに出会った、まさにその時に、ぱっと火花が飛散るように、自己と自己ならざるものとがなにかから生じる。……個人とは、このなにかが、自己と自己ならざるものとの出会いを機縁にして分れて生じて来たものである。このなにかが個人以前にある。……私はさしあたってこのなにかを、「人と人との間」という言い方で言い表わしておこうと思う。

※注記:太文字は原著では傍点によって示されている
『新編・人と人との間』ちくま学芸文庫、二〇二五年、二八―三〇頁

木村敏

ことば

私たちは自分自身の人生を自分の手で生きていると思っている。しかし実のところは、私たちが自分の人生と思っているものは、だれかによって見られている夢ではないのだろうか。……夜、異郷、祭、狂気、そういった非日常のときどきに、私たちはこの「だれか」をいつも以上に身近に感じとっているはずである。夜半に訪れる今日と明日のあいだ、昨日と今日のあいだ、大晦日の夜の今年と来年のあいだ、去年と今年のあいだ、そういった「時と時とのあいだ」のすきまを、じっと視線をこらして覗きこんでみるといい。そこに見えてくる一つの顔があるだろう。その顔の持主が夢を見はじめたときに、私はこの世に生まれてきたのだろう。そして、その「だれか」が夢から醒めるとき、私の人生はどこかへ消え失せているのだろう。この夢の主は、死という名をもっているのではないのか。

『時間と自己』中公新書、一九八二年、一九一―一九二頁

木村敏

ことば

自己が自己として自らを自覚しうるのは、自己が自己ならざるものに出会ったその時においてでなくてはならない。……自己と自己ならざるものとの両者は、いわば同時に成立する。西田幾多郎の有名な「世界が自覚する時、我々の自己が自覚する。我々の自己が自覚する時、世界が自覚する」は、この点を指している。……自己が自己ならざるものに出会った、まさにその時に、ぱっと火花が飛散るように、自己と自己ならざるものとがなにかから生じる。……個人とは、このなにかが、自己と自己ならざるものとの出会いを機縁にして分れて生じて来たものである。このなにかが個人以前にある。……私はさしあたってこのなにかを、「人と人との間」という言い方で言い表わしておこうと思う。

※注記:太文字は原著では傍点によって示されている
『新編・人と人との間』ちくま学芸文庫、二〇二五年、二八―三〇頁